泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑩千呪陀羅尼

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第10章。第9章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

10章 千呪陀羅尼

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毒があるかも、とうつがって、僕は食事もとらず、薬だって飲もうとしなかった。うつくしい顔をしていても、優しいことを言ったとしても、偽物の姉さんになんて僕は言葉をかけない。眼にふれて見ゆるものとしいえば、たけりくるい、罵り叫びてあれたりしが、ついには声も出せず、体も動かせず、われ人をわきまえず心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら抱きあげられて高き石壇をのぼり、大きな門を入つ゛ていく

の色きれいに掃きたる一条《ひとすじ》の道長き、右左、石燈籠《いしどうろう》と石榴《ざくろ》の樹の小さきと、おなじほどの距離にかわるがわる続きたるを行《ゆ》きて、香《こう》の薫《かおり》しみつきたる太き円柱《まるばしら》の際に寺の本堂に据えられつ、ト思う耳のはたに竹を破《わ》る響《ひびき》きこえて、僧ども五三人一斉に声を揃え、高らかに誦《じゅ》する声耳を聾《ろう》するばかり喧《かし》ましさ堪うべからず、禿顱《とくろ》ならび居る木のはしの法師ばら、何をかすると、拳《こぶし》をあげて一|人《にん》の天窓《あたま》をうたんとせしに、一幅《ひとはば》の青き光|颯《さっ》と窓を射て、水晶の念珠瞳をかすめ、ハッシと胸をうちたるに、ひるみて踞《うずく》まる時、若僧《じゃくそう》円柱をいざり出でつつ、つい居て、サラサラと金襴《きんらん》の帳《とばり》を絞る、燦爛《さんらん》たる御廚子《みずし》のなかに尊き像《すがた》こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ天地に鳴りぬ。
 端厳微妙《たんげんみみょう》のおんかおばせ、雲の袖、霞の袴《はかま》ちらちらと瓔珞《ようらく》をかけたまいたる、玉なす胸に繊手《せんしゅ》を添えて、ひたと、おさなごを抱《いだ》きたまえるが、仰ぐ仰ぐ瞳うごきて、ほほえみたまうと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまえり。
 滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦《うづま》いて寄する風の音、遠き方《かた》より呻《うな》り来て、どっと満山に打《うち》あたる。
 本堂|青光《あおびかり》して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはいあがりて、ひしとその胸を抱《いだ》きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまわで、あたたかき腕《かいな》はわが背《せな》にて組合わされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降りのなかに陀羅尼《だらに》を呪《じゅ》する聖《ひじり》の声々さわやかに聞きとられつ。あわれに心細くもの凄《すご》きに、身の置処《おきどころ》あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋《すが》りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟をば掻きひらきたまいつつ、乳《ち》の下にわがつむり押入れて、両袖を打《うち》かさねて深くわが背《せな》を蔽《おお》いたまえり。御仏《みほとけ》のそのおさなごを抱《いだ》きたまえるもかくこそと嬉しきに、おちいて、心地すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ呪もはてたる。雷《らい》の音も遠ざかる。わが背をしかと抱《いだ》きたまえる姉上の腕《かいな》もゆるみたれば、ソとその懐より顔をいだしてこわごわその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかわらでなむ、いたくもやつれたまえりけり。雨風のなおはげしく外《おもて》をうかがうことだにならざる、静まるを待てば夜もすがら暴《あれ》通しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜したまいぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九ツ谺といいたる谷、あけがたに杣《そま》のみいだしたるが、たちまち淵《ふち》になりぬという。
 里の者、町の人皆|挙《こぞ》りて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来《きた》り見き。その日一天うららかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風おもむろに小波《ささなみ》わたる淵の上には、塵一葉《ちりひとは》の浮《うか》べるあらで、白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧《らんぺき》なる水面を横ぎりて舞えり。
 すさまじき暴風雨《あらし》なりしかな。この谷もと薬研《やげん》のごとき形したりきとぞ。
 幾株となき松柏《まつかしわ》の根こそぎになりて谷間に吹倒されしに山腹の土落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのずからなる堤防をなして、凄《すさ》まじき水をば湛《たた》えつ。一たびこのところ決潰《けっかい》せむか、城《じょう》の端《はな》の町は水底《みなそこ》の都となるべしと、人々の恐れまどいて、怠らず土を装《も》り石を伏せて堅き堤防を築きしが、あたかも今の関屋少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩《ふたば》なりし常磐木《ときわぎ》もハヤ丈のびつ。草|生《お》い、苔《こけ》むして、いにしえよりかかりけむと思い紛《まが》うばかりなり。
 あわれ礫《つぶて》を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたずらを叱り留《とど》めつ。年若く面《おもて》清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛えたる淵に臨みて粛然とせり。

 

 

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

河出書房新社「鏡花幻想譚」シリーズ1巻の『龍潭譚』には地図ものっていて、物語の理解のたすけになるのでオススメ。

 

 

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑨ふるさと

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第9章。第8章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

9章 ふるさと

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おじさんは僕に手を貸しながら船からおろきた。またその背を向けたり。
「泣くでねえ泣くでねえ。もうじきに坊ッさまの家じゃ」と慰めてくる。泣いている理由はそうじゃないけど、言っても意味はなくて、ただ泣いていた。しだいに疲れを感じて、手も足も綿のごとくうちかけらるるよう肩に背負われて、顔を垂れて連れていかれる。見覚えのある板塀のあたりに来て、日がやや暮れかけてきた時、老夫《おじ》はわれを抱きおろして溝のふちに立たせ、ほくほく微笑みながら、慇懃に会釈をした。
「おとなにしさっしゃりませ。はい」
と言うと、どこかへ行ってしまった。別れは惜しかったけど、あとを追うための力もなく、僕は見おくった。指す方もあらでありくともなく歩をうつすに、頭はふらふらするし、足は重たくて、行き悩む。前に行くも、後ろに帰るも皆見知越《みしりごし》のものなれど、誰も取りあわむとはせで行ったり来たりする。さるにてもなおものありげに僕の顔を見ながら通り過ぎていくけど、冷かに嘲るがごとく憎さげなるぞ腹立しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足は知らず知らず向き直ると、とぼとぼとまた山のほうに歩き出した。
けたたましい足音がして、わしづかみに僕のに襟をつかむ人がいた。何だと振返れば、わが家の後見《うしろみ》せる奈四郎だった。力のたくましい叔父は凄まじき剣幕で、
「つままれめ、どこをほッつく」と喚きざま、僕を引っ立てていく。また庭に引出して水をあびせられむかと、泣き叫んで振り切ろうとしても、叔父は僕をおさえた手をゆるめることはなく、
「しっかりしろ。やい」
とめくるめくばかり背を叩いて宙につるしながら、走って家に帰っていく。騒ぐ召つかいたちを叱りながら、細引を持ってこさせて、しっかりと僕の両手をゆわえあえず、家の奥の三畳ほどの広さの、暗き一室に僕を引立てて、そのまま柱に縛り付けてしまった。もっと近くに来い、噛みついてやる、と思って歯がみして睨む。眼の色こそ怪しくなりたれ、つり上がった目尻は憑きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。
家の外のほうが騒がしくなった。どこかにか行きおれる姉さんが帰ってきたらしかった。襖をいくつかぱたぱたと開く音がして、ハヤここに来たまいつ。叔父は室の外にさえぎり迎えて、
「ま、やっと取返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走っていて、すきがあると駈け出すじゃ。魔《エテ》どのがそれしょびくでの」
と戒めたり。いうことよくわが心を得たるよ、しかり、隙《ひま》だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。
「あ」とばかりにいらえて姉さんは転げるように部屋に入ると、ひしと僕を抱きしめた。何も言わずにさめざめとぞ泣いている。おん情《なさけ》手にこもりて抱《いだ》かれたるわが胸絞らるるようなりき。
姉さんの膝に横たわるあいだに、医者が来て来僕の脈をはかったりした。叔父は医者と一緒に、どこかに去った。
「ちさ、どうか気をたしかにもっておくれ。もう姉さんはどうしたらいいか。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだろう、私だよ」
と言い、姉さんはじっと僕の顔を見つめる。涙痕したたるばかりなり。
姉さんが安心できるように、僕は無理やり笑顔を作って、ニッコと笑って見せた。
「おお、薄気味が悪いねえ」
とそばにいた叔父の妻が、つぶやいてみぶるいした。
やがてまたみんなが僕を取りまいて、ありしことども責むるがごとくに問いぬ。ちゃんと話して疑いを解こうと思っても、おさなき口の順序正しく語るを得むや、根問い、葉問いするに一々説明させられた上に、そもそも僕はあまりに疲れていた。うつつ心に何をかいいたる。
ようやく縛られなくなったけれど、それでも周りは僕を心の狂いたるものとして扱う。いうこと信ぜられず、すること皆人の疑《うたがい》を増すをいかにせむ。ひしと取籠《とりこ》めて庭にも出《いだ》さで日を過しぬ。血色わるくなりて痩《や》せもしつとて、姉上のきづかいたまい、後見《うしろみ》の叔父夫婦にはいとせめて秘《かく》しつつ、そとゆうぐれを忍びて、おもての景色見せたまいしに、門辺《かどべ》にありたる多くの子が我が姿を見ると、一斉に、「アレがさらわれものの、気狂《きちがい》の、狐つきだよ。ほら、見て見て」と言った。砂利、小砂利をつかんで投げつけてきたのは、いつも仲良くしていた友達だった。 姉上は袖もてぼくをかばいながら顔を赤くして遁《に》げ入りたまいつ。人目なき処にわれを引据えつと見るまに取って伏せて、打ちたまいぬ。
悲しくなって泣き出すと、姉さんはあわただしく背をさすり、
「堪忍しておくれよ、ああ、こんなかわいそうなものを」
といいかけて、
「私あもう気でも違いたいよ」としみじみと掻口説きたまいたり。いつのわれにはかわらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉さんまで僕の顔を見るたびに、気を確かに、心を落ち着けなさい、と涙ながらいわるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂いしにはあらずやとわれとわが身を危ぶむようそのたびになりまさりて、果《はて》はまことにものくるわしくもなりもてゆくなる。
たとえば怪しき糸の十重二十重《とえはたえ》にわが身をまとう心地しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思《おもい》あり。それをば刈払い、遁出《のがれい》でむとするにその術《すべ》なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉を顰《ひそ》め、嘲《あざけ》り、笑い、卑《いやし》め、罵《ののし》り、はた悲《かなし》み憂いなどするにぞ、気あがり、心激し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
口惜しく腹立たしきまま身の周囲《まわり》はことごとく敵《かたき》ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠《とりかご》も、はたそれ何等のものぞ、姉さんだって本物の姉さんか。この間は僕を見て、僕が弟だってわからなかった。ちり一つとしてわが眼に入《い》るは、すべてものの化《け》したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復を祈る言《ことば》もわれに心を狂わすよう、わざとさはいうならむと、一たびおもいては堪うべからず、力あらば恣《ほしいまま》にともかくもせばやせよかし、近づかば喰いさきくれむ、蹴飛ばしやらむ、掻《かき》むしらむ、透《すき》あらばとびいでて、九ツ谺《こだま》とおしえたる、とうときうつくしきかのひとの許《もと》に遁げ去らむと、胸の湧《わ》きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。

 

最終章である第10章はこちら

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑧渡船

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第8章。第7章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

8章 渡船

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まぼろしかもわかぬに、心をしずめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまいし元のまま柔かに力なげに蒲団のうえに垂れたまえり。
片手を胸にあてて、いと白くたおやかなる五指をひらきて黄金の目貫《めぬき》キラキラとうつくしき鞘《さや》の塗《ぬり》の輝きたる小さき守刀をしかと持つともなく乳《ち》のあたりに落して据えたる、鼻たかき顔のあおむきたる、唇のものいうごとき、閉じたる眼のほほ笑むごとき、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも違《たが》わぬに、胸に剣《つるぎ》をさえのせたまいたれば、亡き母上のその時のさまに紛《まが》うべくも見えずなむ、コハこの君もみまかりしよとおもういまわしさに、はや取除《とりの》けなむと、胸なるその守刀に手をかけて、つと引く、せっぱゆるみて、青き光|眼《まなこ》を射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐《ちしお》さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の拳《こぶし》もてしかとおさえたれど、留《とど》まらで、とうとうと音するばかりぞ淋漓《りんり》としてながれつたえる、血汐のくれない衣《きぬ》をそめつ。うつくしき人は寂《せき》として石像のごとく静《しずか》なる鳩尾《みずおち》のしたよりしてやがて半身をひたし尽しぬ。おさえたるわが手には血の色つかぬに、燈《ともしび》にすかす指のなかの紅《くれない》なるは、人の血の染《そ》みたる色にはあらず、訝《いぶか》しく撫《な》で試むる掌《たなそこ》のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらわになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその膚《はだ》にまといたまいし紅の色なりける。いまはわれにもあらで声高に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効《かい》なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚《おぼ》し。顔あたたかに胸をおさるる心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。
 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫《おじ》の背《せな》に負われて、とある山路を行《ゆ》くなりけり。うしろよりはかのうつくしき人したがい来ましぬ。
 さてはあつらえたまいしごとく家に送りたまうならむと推《おし》はかるのみ、わが胸の中《うち》はすべて見すかすばかり知りたまうようなれば、わかれの惜しきも、ことのいぶかしきも、取出でていわむは益《やく》なし。教うべきことならむには、彼方《かなた》より先んじてうちいでこそしたまうべけれ。
 家に帰るべきわが運ならば、強いて止《とど》まらむと乞いたりとて何かせん、さるべきいわれあればこそ、と大人しゅう、ものもいわでぞ行《ゆ》く。
 断崖《だんがい》の左右に聳《そび》えて、点滴声する処ありき。雑草高き径《こみち》ありき。松柏《まつかしわ》のなかを行《ゆ》く処もありき。きき知らぬ鳥うたえり。褐色なる獣ありて、おりおり叢《くさむら》に躍り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年《こぞ》の落葉道を埋《うず》みて、人多く通う所としも見えざりき。
 おじは一|挺《ちょう》の斧《おの》を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨《いばら》など生いしげりて、衣《きぬ》の袖をさえぎるにあえば、すかすかと切って払いて、うつくしき人を通し参らす。されば山路《やまみち》のなやみなく、高き塗下駄《ぬりげた》の見えがくれに長き裾《すそ》さばきながら来たまいつ。
 かくて大沼の岸に臨みたり。水は漫々として藍《らん》を湛《たた》え、まばゆき日のかげもここの森にはささで、水面をわたる風寒く、颯々《さっさつ》として声あり。おじはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱《いだ》きたまう、衣《きぬ》の袖左右より長くわが肩にかかりぬ。
 蘆間《あしま》の小舟《おぶね》の纜《ともづな》を解きて、老夫《おじ》はわれをかかえて乗せたり。一緒ならではと、しばしむずかりたれど、めまいのすればとて乗りたまわず、さらばとのたまうはしに棹《さお》を立てぬ。船は出でつ。わッと泣きて立上りしがよろめきてしりいに倒れぬ。舟というものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後《うしろ》に居たまえりとおもう人の大《おおい》なる環《わ》にまわりて前途《ゆくて》なる汀《みぎわ》に居たまいき。いかにして渡し越したまいつらむと思うときハヤ左手《ゆんで》なる汀に見えき。見る見る右手《めて》なる汀にまわりて、やがて旧《もと》のうしろに立ちたまいつ。箕《み》の形したる大《おおい》なる沼は、汀の蘆と、松の木と、建札と、その傍《かたわら》なるうつくしき人ともろともに緩き環を描いて廻転し、はじめは徐《おもむ》ろにまわりしが、あとあと急になり、疾《はや》くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまわるまわる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまえる、とばかりありて眼の前《さき》にうつくしき顔の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけたるが莞爾《にっこ》とあでやかに笑みたまいしが、そののちは見えざりき。蘆は繁く丈よりも高き汀に、船はとんとつきあたりぬ。

 

 

 

第9章はこちら

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑦九ツ谺

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第7章。第6章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

7章 九ツ谺

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僕の隣に横たわった女の人は、さっき水を浴びたせいか、触れるたびに僕の肌がひんやりと総毛立ったけど、何の心ものうひしと取縋りまいらせぬ。あとをあとをというに、おさな物語二ツ三ツ聞かせてくれた。やがて、
「一ツ谺(こだま)坊や、二ツ谺といえるかい」
「二ツ谺」
「三ツ谺、四ツ谺と言ってごらん」
「四ツ谺」
「五ツ谺。そのあとは?」
「六ツ谺」
「そうそう七ツ谺」
「八ツ谺」
「九ツ谺ーー。ここはね、九ツ谺というところなの。さあ、もうおとなにして寝るんですよ」


僕の背中に手をかけ引寄せて、玉のようなその乳房を女の人は僕の口にふくませてくれた。露《あらわ》に白き襟、肩のあたり鬢《びん》のおくれ毛がはらはらとみだれたる。

その様子は、僕の姉さんとはまるでちがう。乳を吸うなんて、姉さんは許してくれない。ふところをさぐろうものなら、いつも叱られる。母さんが亡くなってから、もう三年経つ。それでも、母さんの乳の味は忘れられない。今女の人に含ませてもらってる乳は、母さんのと似てない。垂玉の乳房はただ淡雪のごとく含むと舌にきえて触るものなく、すずしき唾ばかりがあふれてくる。


軽く背をさすられて、うつらうつらとしてきた時だった。屋の棟、天井の上と思われる場所から、凄まじき音がした。しばらく経っても鳴りやまない。ここにつむじ風吹くと柱動く恐しさに、震えてしがみつく僕を女の人は抱きしめて、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ、いけません」
ときっぱりとのたまえば、やがて天井の音は静かになった。
「怖くないよ。あれは鼠だもの」
とある、さりげなくも、僕はなおその響《ひびき》のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるえたり。


うつくしき人はなかばのりいでたまいて、とある蒔絵ものの手箱のなかから、一口の守り刀を取出した。鞘《さや》ながら引《ひき》そばめ、雄々しき声にて、
「何が来てももう恐くはない、安心してお寝よ」とのたまう、たのもしき状《さま》よと思いてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈《ありあけ》暗く床柱の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色|籠《こ》めて、香《こう》の薫《かおり》残りたり。枕をはずして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉《とじ》たまいたる眼の睫毛《まつげ》かぞうるばかり、すやすやと寝入りていたまいぬ。ものいわむとおもう心おくれて、しばし瞻《みまも》りしが、淋しさにたえねばひそかにその唇に指さきをふれてみぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまえり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打《うち》まもりぬ。ふとその鼻頭《はなさき》をねらいて手をふれしに空《くう》を捻《ひね》りて、うつくしき人は雛《ひな》のごとく顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするよう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳《ち》の下に面《おもて》をふせて、強く額もて圧《お》したるに、顔にはただあたたかき霞のまとうとばかり、のどかにふわふわとさわりしが、薄葉《うすよう》一重《ひとえ》の支うるなく着けたる額はつと下に落ち沈むを、心着けば、うつくしき人の胸は、もとのごとく傍《かたわら》にあおむきいて、わが鼻は、いたずらにおのが膚《はだ》にぬくまりたる、やわらかいふとんにうもれて、おかし。

 

第8章はこちら

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑥五位鷺

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第6章。第5章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

6章 五位鷺

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目のふちが、ぬぐわれたように清々しい心地がする。涼しい薫りもすると気がついた。目を開けると、僕は体は柔かいふとんの上に横たわっていた。

少し頭をもたげてみる。竹縁の障子をあけ放した先に、庭が見えた。庭の向こうの山懐《やまふところ》には、緑の草が、ぬれ色青く生茂っている。その半腹にかかりある巌角《いわかど》の苔のなめらかなるに、一本のろうそくに灯をともしている。灯の影は涼しげに揺れ、筧の水がむくむくと湧いて玉のように散るあたりにたらいを置いて、髪を結ったうつくしい女の人が、一糸まとわぬ姿で、向こう側を見ながら水にひたっていた。
筧の水はそのたらいに落ちて、あふれにあふれて、地のくぼみに流れていく音がする。ろうそくの灯は、吹くとなき山おろしにあかくなり、くろうなりて、ちらちらと眼に映る肌は、雪のように白い。


僕が寝返る音が聞こえたらしく、女の人はふとこちらを見返る。そしてうなずいた。片手をたらいのふちにかけ、片足を立ててたらいの外に出ると、さっと音がして、烏よりは小さい、真っ白な鳥がひらひらと舞いおりて、うつくしい人のふくらはぎのあたりをかすめる。そのまま怖がる様子もなく翼を休め始めたので、女の人は取りに来てざぶりと水をあびせてにっこりとあでやかに笑って歩き出す。手早く服を手に取ると自分の胸を覆うように隠した。水をかけられた鳥はおどろいて、慌てて飛び去っていった。
夜の色は極めてくらし、蝋を取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄を重く引く音がする。ゆるやかに縁の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向《ねじむ》きざま、僕の顔を見た。
「気分はなおったかい、坊や」
と言って、女の人は頭を傾ける。ちかまさりせる面《おもて》けだかく、眉あざやかに、涼しげな目もと、鼻は高めで、唇の紅《くれない》なる、額つき頬のあたりろうたけたり。こはかねてわがよしと思い詰《つめ》たる雛《ひな》のおもかげによく似たれば高貴な身分の人のように見える。年は姉さんより上に思えた。知ってる人ではないけど、何故かはじめて逢った人とも思えない。それなら誰なんだろう、としげしげ見つめた。
 女の人はまたほほえむと、
「お前、あれは斑猫(はんみょう)といって大変な毒虫なの。もう大丈夫ね、まるでかわったようにうつくしくなった。あれでは姉さんが見違えるのも無理はないのだもの」
僕もそうだろうと思わざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑わずなりて、女の人の言うままに頷いた。あたりのめずらしければ起きようとする僕の夜着の肩を、女の人はながく柔かにおさえる。
「じっとしておいで、調子がわるいのだから。落着いて、ね、気をしずめるのだよ、いいかい」
僕は逆らうことなく、ただ眼をもて答えぬ。
「どれ」と言って女の人が立った瞬間、のしのしと道芝を踏む音がして、つづれをまとった、赤ら顔の老夫《おやじ》の、縁近う入り来つ。
「はい、これはお子さまがござらっせえたの。可愛い子じゃ、お前様も嬉しかろう。ははは、どりゃ、またいつものを頂きましょか」
 腰をななめにうつむきて、ひったりとかの筧に顔をあて、口をおしつけてごっごっごっとたてつづけに飲むと、ふう、と息を吹いて空を仰いだ。
「やれやれ甘(うま)いことかな。はい、参ります」
と踵を返したのを、女の人が呼び止めた。
「じいや、御苦労だが。また来ておくれ、この子を返さねばならぬから」
「あいあい」
 と答えて、今度こそ老夫は去った。山風をさっとおろして、さっきも見た白い鳥が、また飛んでいった。黒い盥のうちに乗ると、羽づくろいしながらじっとしている。
「もう、風邪を引かないように寝させてあげよう。どれ、それなら私も寝ようか」と女の人は言うと、静かに雨戸を引いた。

 

第7章はこちら

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑤大沼

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第5章。第4章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

5章 大沼

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「ちさと、まだ見つからないって。私あどうしよう、じいや」
「どこにもおられないなんてことはござりますまいが、日は暮れまする。なんせ、御心配なことでございますな。お前様、遊びに出す時に、帯の結びめをとんとたたいてさしあげれば良かったのに」
「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、きょうはあの子、私にかくれてそッと出て行ったんじゃないかねえ」
「そりゃあ残念なことだ。帯の結びめさえ叩いときゃ、何がそれで姉様なり、母様なりの魂が入るもんで、魔(えて)の野郎はどうすることもできねえから」


「そうねえ」とものかなしげに語りながら、姉さんの声と下男の声の二人は社の前をよこぎっていく。
すぐに社の前に走って出ていったけど、もういない。少し遅かった。こうなると、僕はさっき社の前で声を聞いた姉さんのことまで怪しく思えてくる。後悔してもどうにもならず、向こうの境内の鳥居のあたりまで追いかけたけれど、姉さんの姿は見えなかった。


涙ぐみながら一人たたずむ。ふと、銀杏の木に目をやった。暗い夜の空の下、大きな丸い影が茂るそこに女の人の後ろ姿を見つけた。
あまりよく似ていたから、姉さん、と呼ぼうとしたけど、もし良くないものに声をかけて、下手に僕がここにいることを知られたら。馬鹿なことをするのは良くない、と思ってやめた。


そうこうしているうちに、その姿はまたどこかに消えてしまった。姿が見えなくなるとなおのこと恋しい。たとえ人ならざる恐ろしいものだとしても、仮にも僕の優しい姉さんの姿に化けているなら、僕を捕えてもひどいことはしないだろう。さっき社のそばで見聞きした人は実は姉さんじゃなくて、今幻のように見かけた人こそが本物の姉さんだったのかもしれない。どうして声をかけなかったんだろう、と涙がこぼれるけど、どうしようもなかった。

ああ、見るもの全てが怪しく思えるのは、僕の目がどうにかなってしまっているからに違いない。それか、僕の目は今涙でくもっているのかも。だったら向こうの御手洗《みたらし》で洗い清めてみよう。僕は御手洗に寄っていった。


御手洗には、横長の煤けた行燈が一つ上にかかっていて、ほととぎすの画《え》と句が書いてある。行燈の灯に照らされた水はよく澄んでいて、青く苔むした石鉢の底もはっきり見える。

手で水をすくおうとうつむいた時、思いかけず見えた僕の顔は大きく腫れ上がった顔。どう見ても僕の顔には似ても似つかない。いったいどうしたことか。思わず叫びそうになったけどどうにかこらえて、心を落ち着けて、両目をぬぐって、もう一度水をのぞきこんだ。
また見ても、映っているのは僕の顔じゃない。見る影もなく腫れ上がった、別人みたいな顔だ。こんなの僕の顔じゃない、どうしてこんな顔に見えるんだろう。きっと心が惑わされているからだ。今度こそ、今度こそはちゃんと自分の顔が見えるはず、と震えながら見直した瞬間、肩を誰かにつかまれた。
「ああ、ああ、千里。ええ、もう、お前は」

肩をつかんだその人が声を震わせて言う。姉さんだ。思わずすがりつこうと振り返った。でも姉さんは僕の顔を見ると、
「あれ!」
と言って一歩後ずさりする。「違ってたよ、坊や」とだけ言いすてるとすぐに走って去ってしまった。
得体の知れない奴らめ、いろんなやり口で僕をいじめてくる。こんなのあんまりだと腹立たしい。もつれる足で泣きに泣きながら、一生懸命姉さんを追いかけた。捕まえて何かしようとは考えてなかった。ただ悔しくて、とにかく追いかけた。
坂を下りたり上ったり、町の大通りらしき場所にも出ても、暗い小道もたどり、野もよこぎった。畦(あぜ)も越えた。後ろも見ずに、ひたすら走った。
どれほど走っただろうか。いつのまにか、水面が闇の中に銀河のように横たわって、黒く、不気味な森が四方をかこんでいた。どうやら大沼まで来たようだ。行く手をふさぐようにしげった蘆(あし)の葉の中に、疲れ果てて倒れこむ。そのまま、僕は意識を失った。

 

第6章はこちら

泉鏡花『龍潭譚』現代語訳④おう魔が時

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第4章。第3章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

4章 おう魔が時

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僕が思った通り、堂の前を左にまわって少し行ったつきあたりに、小さな稲荷の社があった。青い旗、白い旗が二、三本前に立って、社の後ろはすぐに山の雑樹が斜めに生え、社の上を隠すように覆っている。その下の薄暗いところ、穴のようにぽっかりとあいた場所に、うつくしい女の人はそっと目配せした。その瞳は水がしたたるようで、ななめに僕の顔を見て動いているから、女の人の意図ははっきり読めた。きっと、そこに子どもたちが隠れているのだと教えてくれているのだ。


それならばと少しもためらわず、つかつかと社の裏をのぞき込んだ。鼻をうつような冷たい風が吹く。落葉、朽葉がうず高く積み上がっている。湿った土のにおいがするだけで、人の気配はない。襟もとがひんやりとした心地になって、僕は振り返って女性のほうを見た。まばたきほどのほんの一瞬の間に、あのうつくしい女の人はいなくなっていた。

どこに行ってしまったのだろうか。境内はさっきよりも暗い。恐怖に身の毛がよだつ。思わず「わあっ」と叫んだ。

 

「人の顔がはっきりしない夕方に、暗い隅のほうへ行ってはだめよ。たそがれの片隅には、人ならざる怪しいものがいて、人を惑わすから」と姉さんが教えてくれたことがあった。僕は呆然と目を見開いた。足を動かそうにも動かず、硬直して立ちすくむ。

ふと見ると、僕の左側に坂があった。その奥の方は穴のように暗く深くなっていて、底から風が吹き出ている。悪いものが坂の底から這い上ってきてそうに思えた。ここにいたら捕まえられてしまうかもしれない。恐ろしくなって、僕はとっさに社の裏の狭い場所に逃げ込んだ。目をふさぎ、息をころしてひそんでいると、四つ足の何かが歩く気配が、社の前を横ぎっていった。


僕は、四つ足の何かの気配に生きた心地がしなかった。とにかく見つからないように、とひたすら手足を縮こませた。それでも、さっきの女の人のうつくしい顔、優しい眼差しが頭から離れない。ここを僕に教えたのは、今にして思えば、隠れている子の居場所ではなくて、何か恐ろしいものが僕を捕えようとしているのを、ここに隠れて助かりなさい、と導いたからではないか。幼い頭でそんなことを考える。しばらくして小提灯《こぢょうちん》の火影《ほかげ》で赤く染まる坂の下から、駆け足でのぼってきて向こうに走っていく人影を見た。ほどなくして引き返し、僕が隠れている社の前に近づいてくる。一人ではなく、二、三人が一緒に来た感じがした。さらに別の足音が坂からのぼってきて、社のそばの気配に合流した。
「おいおい、まだ見つからないのか」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たという奴がいるんだが」
後に言ったのは、僕の家に仕えている下男の声に似ていた。慌てて出ていこうとする。でも、いや、もしや恐ろしいものが僕をだまして、おびき出してやろうとしているのかも、という考えが浮かんで、恐ろしさが増した。やめておこう。
「もう一度念のためだ、田んぼのほうをまわって見てみよう。お前も頼む」
「それでは」と言って、社の前の人たちは上下にばらばらと分かれて去っていった。
また、あたりがシンとする。そっと身うごきして、足をのばす。社の板目に手をかけて、極力目だけをのぞかせるように顔を少しだけ出して、あたりをうかがう。何もおかしなものは見当たらなくて、少しホッとした。怪しい奴らは、何とてやはわれをみいだし得む、馬鹿だなあ、と冷ややかに笑う。と、思いがけず誰かしらの驚く声がして、あわてふためき逃げる。驚いてまた隠れた。
「ちさと、ちさと」と坂の下あたりで、かなしげに僕を呼んでいるのは、姉さんの声だった。

 

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