泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑦九ツ谺

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第7章。第6章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

7章 九ツ谺

f:id:kimigata:20190608065747j:plain

僕の隣に横たわった女の人は、さっき水を浴びたせいか、触れるたびに僕の肌がひんやりと総毛立ったけど、何の心ものうひしと取縋りまいらせぬ。あとをあとをというに、おさな物語二ツ三ツ聞かせてくれた。やがて、
「一ツ谺(こだま)坊や、二ツ谺といえるかい」
「二ツ谺」
「三ツ谺、四ツ谺と言ってごらん」
「四ツ谺」
「五ツ谺。そのあとは?」
「六ツ谺」
「そうそう七ツ谺」
「八ツ谺」
「九ツ谺ーー。ここはね、九ツ谺というところなの。さあ、もうおとなにして寝るんですよ」


僕の背中に手をかけ引寄せて、玉のようなその乳房を女の人は僕の口にふくませてくれた。露《あらわ》に白き襟、肩のあたり鬢《びん》のおくれ毛がはらはらとみだれたる。

その様子は、僕の姉さんとはまるでちがう。乳を吸うなんて、姉さんは許してくれない。ふところをさぐろうものなら、いつも叱られる。母さんが亡くなってから、もう三年経つ。それでも、母さんの乳の味は忘れられない。今女の人に含ませてもらってる乳は、母さんのと似てない。垂玉の乳房はただ淡雪のごとく含むと舌にきえて触るものなく、すずしき唾ばかりがあふれてくる。


軽く背をさすられて、うつらうつらとしてきた時だった。屋の棟、天井の上と思われる場所から、凄まじき音がした。しばらく経っても鳴りやまない。ここにつむじ風吹くと柱動く恐しさに、震えてしがみつく僕を女の人は抱きしめて、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ、いけません」
ときっぱりとのたまえば、やがて天井の音は静かになった。
「怖くないよ。あれは鼠だもの」
とある、さりげなくも、僕はなおその響《ひびき》のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるえたり。


うつくしき人はなかばのりいでたまいて、とある蒔絵ものの手箱のなかから、一口の守り刀を取出した。鞘《さや》ながら引《ひき》そばめ、雄々しき声にて、
「何が来てももう恐くはない、安心してお寝よ」とのたまう、たのもしき状《さま》よと思いてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈《ありあけ》暗く床柱の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色|籠《こ》めて、香《こう》の薫《かおり》残りたり。枕をはずして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉《とじ》たまいたる眼の睫毛《まつげ》かぞうるばかり、すやすやと寝入りていたまいぬ。ものいわむとおもう心おくれて、しばし瞻《みまも》りしが、淋しさにたえねばひそかにその唇に指さきをふれてみぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまえり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打《うち》まもりぬ。ふとその鼻頭《はなさき》をねらいて手をふれしに空《くう》を捻《ひね》りて、うつくしき人は雛《ひな》のごとく顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするよう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳《ち》の下に面《おもて》をふせて、強く額もて圧《お》したるに、顔にはただあたたかき霞のまとうとばかり、のどかにふわふわとさわりしが、薄葉《うすよう》一重《ひとえ》の支うるなく着けたる額はつと下に落ち沈むを、心着けば、うつくしき人の胸は、もとのごとく傍《かたわら》にあおむきいて、わが鼻は、いたずらにおのが膚《はだ》にぬくまりたる、やわらかいふとんにうもれて、おかし。

 

第8章はこちら