泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑩千呪陀羅尼

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第10章。第9章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

10章 千呪陀羅尼

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毒があるかも、とうつがって、僕は食事もとらず、薬だって飲もうとしなかった。うつくしい顔をしていても、優しいことを言ったとしても、偽物の姉さんになんて僕は言葉をかけない。眼にふれて見ゆるものとしいえば、たけりくるい、罵り叫びてあれたりしが、ついには声も出せず、体も動かせず、われ人をわきまえず心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら抱きあげられて高き石壇をのぼり、大きな門を入つ゛ていく

の色きれいに掃きたる一条《ひとすじ》の道長き、右左、石燈籠《いしどうろう》と石榴《ざくろ》の樹の小さきと、おなじほどの距離にかわるがわる続きたるを行《ゆ》きて、香《こう》の薫《かおり》しみつきたる太き円柱《まるばしら》の際に寺の本堂に据えられつ、ト思う耳のはたに竹を破《わ》る響《ひびき》きこえて、僧ども五三人一斉に声を揃え、高らかに誦《じゅ》する声耳を聾《ろう》するばかり喧《かし》ましさ堪うべからず、禿顱《とくろ》ならび居る木のはしの法師ばら、何をかすると、拳《こぶし》をあげて一|人《にん》の天窓《あたま》をうたんとせしに、一幅《ひとはば》の青き光|颯《さっ》と窓を射て、水晶の念珠瞳をかすめ、ハッシと胸をうちたるに、ひるみて踞《うずく》まる時、若僧《じゃくそう》円柱をいざり出でつつ、つい居て、サラサラと金襴《きんらん》の帳《とばり》を絞る、燦爛《さんらん》たる御廚子《みずし》のなかに尊き像《すがた》こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ天地に鳴りぬ。
 端厳微妙《たんげんみみょう》のおんかおばせ、雲の袖、霞の袴《はかま》ちらちらと瓔珞《ようらく》をかけたまいたる、玉なす胸に繊手《せんしゅ》を添えて、ひたと、おさなごを抱《いだ》きたまえるが、仰ぐ仰ぐ瞳うごきて、ほほえみたまうと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまえり。
 滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦《うづま》いて寄する風の音、遠き方《かた》より呻《うな》り来て、どっと満山に打《うち》あたる。
 本堂|青光《あおびかり》して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはいあがりて、ひしとその胸を抱《いだ》きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまわで、あたたかき腕《かいな》はわが背《せな》にて組合わされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降りのなかに陀羅尼《だらに》を呪《じゅ》する聖《ひじり》の声々さわやかに聞きとられつ。あわれに心細くもの凄《すご》きに、身の置処《おきどころ》あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋《すが》りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟をば掻きひらきたまいつつ、乳《ち》の下にわがつむり押入れて、両袖を打《うち》かさねて深くわが背《せな》を蔽《おお》いたまえり。御仏《みほとけ》のそのおさなごを抱《いだ》きたまえるもかくこそと嬉しきに、おちいて、心地すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ呪もはてたる。雷《らい》の音も遠ざかる。わが背をしかと抱《いだ》きたまえる姉上の腕《かいな》もゆるみたれば、ソとその懐より顔をいだしてこわごわその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかわらでなむ、いたくもやつれたまえりけり。雨風のなおはげしく外《おもて》をうかがうことだにならざる、静まるを待てば夜もすがら暴《あれ》通しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜したまいぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九ツ谺といいたる谷、あけがたに杣《そま》のみいだしたるが、たちまち淵《ふち》になりぬという。
 里の者、町の人皆|挙《こぞ》りて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来《きた》り見き。その日一天うららかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風おもむろに小波《ささなみ》わたる淵の上には、塵一葉《ちりひとは》の浮《うか》べるあらで、白き鳥の翼広きがゆたかに藍碧《らんぺき》なる水面を横ぎりて舞えり。
 すさまじき暴風雨《あらし》なりしかな。この谷もと薬研《やげん》のごとき形したりきとぞ。
 幾株となき松柏《まつかしわ》の根こそぎになりて谷間に吹倒されしに山腹の土落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのずからなる堤防をなして、凄《すさ》まじき水をば湛《たた》えつ。一たびこのところ決潰《けっかい》せむか、城《じょう》の端《はな》の町は水底《みなそこ》の都となるべしと、人々の恐れまどいて、怠らず土を装《も》り石を伏せて堅き堤防を築きしが、あたかも今の関屋少将の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩《ふたば》なりし常磐木《ときわぎ》もハヤ丈のびつ。草|生《お》い、苔《こけ》むして、いにしえよりかかりけむと思い紛《まが》うばかりなり。
 あわれ礫《つぶて》を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気なる友のいたずらを叱り留《とど》めつ。年若く面《おもて》清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛えたる淵に臨みて粛然とせり。

 

 

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

河出書房新社「鏡花幻想譚」シリーズ1巻の『龍潭譚』には地図ものっていて、物語の理解のたすけになるのでオススメ。