泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑥五位鷺

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第6章。第5章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

6章 五位鷺

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目のふちが、ぬぐわれたように清々しい心地がする。涼しい薫りもすると気がついた。目を開けると、僕は体は柔かいふとんの上に横たわっていた。

少し頭をもたげてみる。竹縁の障子をあけ放した先に、庭が見えた。庭の向こうの山懐《やまふところ》には、緑の草が、ぬれ色青く生茂っている。その半腹にかかりある巌角《いわかど》の苔のなめらかなるに、一本のろうそくに灯をともしている。灯の影は涼しげに揺れ、筧の水がむくむくと湧いて玉のように散るあたりにたらいを置いて、髪を結ったうつくしい女の人が、一糸まとわぬ姿で、向こう側を見ながら水にひたっていた。
筧の水はそのたらいに落ちて、あふれにあふれて、地のくぼみに流れていく音がする。ろうそくの灯は、吹くとなき山おろしにあかくなり、くろうなりて、ちらちらと眼に映る肌は、雪のように白い。


僕が寝返る音が聞こえたらしく、女の人はふとこちらを見返る。そしてうなずいた。片手をたらいのふちにかけ、片足を立ててたらいの外に出ると、さっと音がして、烏よりは小さい、真っ白な鳥がひらひらと舞いおりて、うつくしい人のふくらはぎのあたりをかすめる。そのまま怖がる様子もなく翼を休め始めたので、女の人は取りに来てざぶりと水をあびせてにっこりとあでやかに笑って歩き出す。手早く服を手に取ると自分の胸を覆うように隠した。水をかけられた鳥はおどろいて、慌てて飛び去っていった。
夜の色は極めてくらし、蝋を取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄を重く引く音がする。ゆるやかに縁の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向《ねじむ》きざま、僕の顔を見た。
「気分はなおったかい、坊や」
と言って、女の人は頭を傾ける。ちかまさりせる面《おもて》けだかく、眉あざやかに、涼しげな目もと、鼻は高めで、唇の紅《くれない》なる、額つき頬のあたりろうたけたり。こはかねてわがよしと思い詰《つめ》たる雛《ひな》のおもかげによく似たれば高貴な身分の人のように見える。年は姉さんより上に思えた。知ってる人ではないけど、何故かはじめて逢った人とも思えない。それなら誰なんだろう、としげしげ見つめた。
 女の人はまたほほえむと、
「お前、あれは斑猫(はんみょう)といって大変な毒虫なの。もう大丈夫ね、まるでかわったようにうつくしくなった。あれでは姉さんが見違えるのも無理はないのだもの」
僕もそうだろうと思わざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑わずなりて、女の人の言うままに頷いた。あたりのめずらしければ起きようとする僕の夜着の肩を、女の人はながく柔かにおさえる。
「じっとしておいで、調子がわるいのだから。落着いて、ね、気をしずめるのだよ、いいかい」
僕は逆らうことなく、ただ眼をもて答えぬ。
「どれ」と言って女の人が立った瞬間、のしのしと道芝を踏む音がして、つづれをまとった、赤ら顔の老夫《おやじ》の、縁近う入り来つ。
「はい、これはお子さまがござらっせえたの。可愛い子じゃ、お前様も嬉しかろう。ははは、どりゃ、またいつものを頂きましょか」
 腰をななめにうつむきて、ひったりとかの筧に顔をあて、口をおしつけてごっごっごっとたてつづけに飲むと、ふう、と息を吹いて空を仰いだ。
「やれやれ甘(うま)いことかな。はい、参ります」
と踵を返したのを、女の人が呼び止めた。
「じいや、御苦労だが。また来ておくれ、この子を返さねばならぬから」
「あいあい」
 と答えて、今度こそ老夫は去った。山風をさっとおろして、さっきも見た白い鳥が、また飛んでいった。黒い盥のうちに乗ると、羽づくろいしながらじっとしている。
「もう、風邪を引かないように寝させてあげよう。どれ、それなら私も寝ようか」と女の人は言うと、静かに雨戸を引いた。

 

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