泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑧渡船

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第8章。第7章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

8章 渡船

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まぼろしかもわかぬに、心をしずめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまいし元のまま柔かに力なげに蒲団のうえに垂れたまえり。
片手を胸にあてて、いと白くたおやかなる五指をひらきて黄金の目貫《めぬき》キラキラとうつくしき鞘《さや》の塗《ぬり》の輝きたる小さき守刀をしかと持つともなく乳《ち》のあたりに落して据えたる、鼻たかき顔のあおむきたる、唇のものいうごとき、閉じたる眼のほほ笑むごとき、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも違《たが》わぬに、胸に剣《つるぎ》をさえのせたまいたれば、亡き母上のその時のさまに紛《まが》うべくも見えずなむ、コハこの君もみまかりしよとおもういまわしさに、はや取除《とりの》けなむと、胸なるその守刀に手をかけて、つと引く、せっぱゆるみて、青き光|眼《まなこ》を射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐《ちしお》さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の拳《こぶし》もてしかとおさえたれど、留《とど》まらで、とうとうと音するばかりぞ淋漓《りんり》としてながれつたえる、血汐のくれない衣《きぬ》をそめつ。うつくしき人は寂《せき》として石像のごとく静《しずか》なる鳩尾《みずおち》のしたよりしてやがて半身をひたし尽しぬ。おさえたるわが手には血の色つかぬに、燈《ともしび》にすかす指のなかの紅《くれない》なるは、人の血の染《そ》みたる色にはあらず、訝《いぶか》しく撫《な》で試むる掌《たなそこ》のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらわになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその膚《はだ》にまといたまいし紅の色なりける。いまはわれにもあらで声高に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効《かい》なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚《おぼ》し。顔あたたかに胸をおさるる心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。
 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫《おじ》の背《せな》に負われて、とある山路を行《ゆ》くなりけり。うしろよりはかのうつくしき人したがい来ましぬ。
 さてはあつらえたまいしごとく家に送りたまうならむと推《おし》はかるのみ、わが胸の中《うち》はすべて見すかすばかり知りたまうようなれば、わかれの惜しきも、ことのいぶかしきも、取出でていわむは益《やく》なし。教うべきことならむには、彼方《かなた》より先んじてうちいでこそしたまうべけれ。
 家に帰るべきわが運ならば、強いて止《とど》まらむと乞いたりとて何かせん、さるべきいわれあればこそ、と大人しゅう、ものもいわでぞ行《ゆ》く。
 断崖《だんがい》の左右に聳《そび》えて、点滴声する処ありき。雑草高き径《こみち》ありき。松柏《まつかしわ》のなかを行《ゆ》く処もありき。きき知らぬ鳥うたえり。褐色なる獣ありて、おりおり叢《くさむら》に躍り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年《こぞ》の落葉道を埋《うず》みて、人多く通う所としも見えざりき。
 おじは一|挺《ちょう》の斧《おの》を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨《いばら》など生いしげりて、衣《きぬ》の袖をさえぎるにあえば、すかすかと切って払いて、うつくしき人を通し参らす。されば山路《やまみち》のなやみなく、高き塗下駄《ぬりげた》の見えがくれに長き裾《すそ》さばきながら来たまいつ。
 かくて大沼の岸に臨みたり。水は漫々として藍《らん》を湛《たた》え、まばゆき日のかげもここの森にはささで、水面をわたる風寒く、颯々《さっさつ》として声あり。おじはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱《いだ》きたまう、衣《きぬ》の袖左右より長くわが肩にかかりぬ。
 蘆間《あしま》の小舟《おぶね》の纜《ともづな》を解きて、老夫《おじ》はわれをかかえて乗せたり。一緒ならではと、しばしむずかりたれど、めまいのすればとて乗りたまわず、さらばとのたまうはしに棹《さお》を立てぬ。船は出でつ。わッと泣きて立上りしがよろめきてしりいに倒れぬ。舟というものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後《うしろ》に居たまえりとおもう人の大《おおい》なる環《わ》にまわりて前途《ゆくて》なる汀《みぎわ》に居たまいき。いかにして渡し越したまいつらむと思うときハヤ左手《ゆんで》なる汀に見えき。見る見る右手《めて》なる汀にまわりて、やがて旧《もと》のうしろに立ちたまいつ。箕《み》の形したる大《おおい》なる沼は、汀の蘆と、松の木と、建札と、その傍《かたわら》なるうつくしき人ともろともに緩き環を描いて廻転し、はじめは徐《おもむ》ろにまわりしが、あとあと急になり、疾《はや》くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまわるまわる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまえる、とばかりありて眼の前《さき》にうつくしき顔の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけたるが莞爾《にっこ》とあでやかに笑みたまいしが、そののちは見えざりき。蘆は繁く丈よりも高き汀に、船はとんとつきあたりぬ。

 

 

 

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