泉鏡花『龍潭譚』現代語訳⑤大沼

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第5章。第4章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

5章 大沼

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「ちさと、まだ見つからないって。私あどうしよう、じいや」
「どこにもおられないなんてことはござりますまいが、日は暮れまする。なんせ、御心配なことでございますな。お前様、遊びに出す時に、帯の結びめをとんとたたいてさしあげれば良かったのに」
「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、きょうはあの子、私にかくれてそッと出て行ったんじゃないかねえ」
「そりゃあ残念なことだ。帯の結びめさえ叩いときゃ、何がそれで姉様なり、母様なりの魂が入るもんで、魔(えて)の野郎はどうすることもできねえから」


「そうねえ」とものかなしげに語りながら、姉さんの声と下男の声の二人は社の前をよこぎっていく。
すぐに社の前に走って出ていったけど、もういない。少し遅かった。こうなると、僕はさっき社の前で声を聞いた姉さんのことまで怪しく思えてくる。後悔してもどうにもならず、向こうの境内の鳥居のあたりまで追いかけたけれど、姉さんの姿は見えなかった。


涙ぐみながら一人たたずむ。ふと、銀杏の木に目をやった。暗い夜の空の下、大きな丸い影が茂るそこに女の人の後ろ姿を見つけた。
あまりよく似ていたから、姉さん、と呼ぼうとしたけど、もし良くないものに声をかけて、下手に僕がここにいることを知られたら。馬鹿なことをするのは良くない、と思ってやめた。


そうこうしているうちに、その姿はまたどこかに消えてしまった。姿が見えなくなるとなおのこと恋しい。たとえ人ならざる恐ろしいものだとしても、仮にも僕の優しい姉さんの姿に化けているなら、僕を捕えてもひどいことはしないだろう。さっき社のそばで見聞きした人は実は姉さんじゃなくて、今幻のように見かけた人こそが本物の姉さんだったのかもしれない。どうして声をかけなかったんだろう、と涙がこぼれるけど、どうしようもなかった。

ああ、見るもの全てが怪しく思えるのは、僕の目がどうにかなってしまっているからに違いない。それか、僕の目は今涙でくもっているのかも。だったら向こうの御手洗《みたらし》で洗い清めてみよう。僕は御手洗に寄っていった。


御手洗には、横長の煤けた行燈が一つ上にかかっていて、ほととぎすの画《え》と句が書いてある。行燈の灯に照らされた水はよく澄んでいて、青く苔むした石鉢の底もはっきり見える。

手で水をすくおうとうつむいた時、思いかけず見えた僕の顔は大きく腫れ上がった顔。どう見ても僕の顔には似ても似つかない。いったいどうしたことか。思わず叫びそうになったけどどうにかこらえて、心を落ち着けて、両目をぬぐって、もう一度水をのぞきこんだ。
また見ても、映っているのは僕の顔じゃない。見る影もなく腫れ上がった、別人みたいな顔だ。こんなの僕の顔じゃない、どうしてこんな顔に見えるんだろう。きっと心が惑わされているからだ。今度こそ、今度こそはちゃんと自分の顔が見えるはず、と震えながら見直した瞬間、肩を誰かにつかまれた。
「ああ、ああ、千里。ええ、もう、お前は」

肩をつかんだその人が声を震わせて言う。姉さんだ。思わずすがりつこうと振り返った。でも姉さんは僕の顔を見ると、
「あれ!」
と言って一歩後ずさりする。「違ってたよ、坊や」とだけ言いすてるとすぐに走って去ってしまった。
得体の知れない奴らめ、いろんなやり口で僕をいじめてくる。こんなのあんまりだと腹立たしい。もつれる足で泣きに泣きながら、一生懸命姉さんを追いかけた。捕まえて何かしようとは考えてなかった。ただ悔しくて、とにかく追いかけた。
坂を下りたり上ったり、町の大通りらしき場所にも出ても、暗い小道もたどり、野もよこぎった。畦(あぜ)も越えた。後ろも見ずに、ひたすら走った。
どれほど走っただろうか。いつのまにか、水面が闇の中に銀河のように横たわって、黒く、不気味な森が四方をかこんでいた。どうやら大沼まで来たようだ。行く手をふさぐようにしげった蘆(あし)の葉の中に、疲れ果てて倒れこむ。そのまま、僕は意識を失った。

 

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