泉鏡花『龍潭譚』現代語訳④おう魔が時

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第4章。第3章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

4章 おう魔が時

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僕が思った通り、堂の前を左にまわって少し行ったつきあたりに、小さな稲荷の社があった。青い旗、白い旗が二、三本前に立って、社の後ろはすぐに山の雑樹が斜めに生え、社の上を隠すように覆っている。その下の薄暗いところ、穴のようにぽっかりとあいた場所に、うつくしい女の人はそっと目配せした。その瞳は水がしたたるようで、ななめに僕の顔を見て動いているから、女の人の意図ははっきり読めた。きっと、そこに子どもたちが隠れているのだと教えてくれているのだ。


それならばと少しもためらわず、つかつかと社の裏をのぞき込んだ。鼻をうつような冷たい風が吹く。落葉、朽葉がうず高く積み上がっている。湿った土のにおいがするだけで、人の気配はない。襟もとがひんやりとした心地になって、僕は振り返って女性のほうを見た。まばたきほどのほんの一瞬の間に、あのうつくしい女の人はいなくなっていた。

どこに行ってしまったのだろうか。境内はさっきよりも暗い。恐怖に身の毛がよだつ。思わず「わあっ」と叫んだ。

 

「人の顔がはっきりしない夕方に、暗い隅のほうへ行ってはだめよ。たそがれの片隅には、人ならざる怪しいものがいて、人を惑わすから」と姉さんが教えてくれたことがあった。僕は呆然と目を見開いた。足を動かそうにも動かず、硬直して立ちすくむ。

ふと見ると、僕の左側に坂があった。その奥の方は穴のように暗く深くなっていて、底から風が吹き出ている。悪いものが坂の底から這い上ってきてそうに思えた。ここにいたら捕まえられてしまうかもしれない。恐ろしくなって、僕はとっさに社の裏の狭い場所に逃げ込んだ。目をふさぎ、息をころしてひそんでいると、四つ足の何かが歩く気配が、社の前を横ぎっていった。


僕は、四つ足の何かの気配に生きた心地がしなかった。とにかく見つからないように、とひたすら手足を縮こませた。それでも、さっきの女の人のうつくしい顔、優しい眼差しが頭から離れない。ここを僕に教えたのは、今にして思えば、隠れている子の居場所ではなくて、何か恐ろしいものが僕を捕えようとしているのを、ここに隠れて助かりなさい、と導いたからではないか。幼い頭でそんなことを考える。しばらくして小提灯《こぢょうちん》の火影《ほかげ》で赤く染まる坂の下から、駆け足でのぼってきて向こうに走っていく人影を見た。ほどなくして引き返し、僕が隠れている社の前に近づいてくる。一人ではなく、二、三人が一緒に来た感じがした。さらに別の足音が坂からのぼってきて、社のそばの気配に合流した。
「おいおい、まだ見つからないのか」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たという奴がいるんだが」
後に言ったのは、僕の家に仕えている下男の声に似ていた。慌てて出ていこうとする。でも、いや、もしや恐ろしいものが僕をだまして、おびき出してやろうとしているのかも、という考えが浮かんで、恐ろしさが増した。やめておこう。
「もう一度念のためだ、田んぼのほうをまわって見てみよう。お前も頼む」
「それでは」と言って、社の前の人たちは上下にばらばらと分かれて去っていった。
また、あたりがシンとする。そっと身うごきして、足をのばす。社の板目に手をかけて、極力目だけをのぞかせるように顔を少しだけ出して、あたりをうかがう。何もおかしなものは見当たらなくて、少しホッとした。怪しい奴らは、何とてやはわれをみいだし得む、馬鹿だなあ、と冷ややかに笑う。と、思いがけず誰かしらの驚く声がして、あわてふためき逃げる。驚いてまた隠れた。
「ちさと、ちさと」と坂の下あたりで、かなしげに僕を呼んでいるのは、姉さんの声だった。

 

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