泉鏡花『龍潭譚』現代語訳②鎮守の社

泉鏡花神隠し譚、『龍潭譚(りゅうたんだん)』の現代語訳(言文一致体)を個人的に試みた記事です。

各章ごとの記事になっています。今回は第2章。第1章はこちら

原文は書籍のほか、泉鏡花『龍潭譚』(青空文庫)からも読めます。

 

※この記事では、より読みやすくするために、訳のほか、改行位置なども変えています。 

 

2章 鎮守の社

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一つ一つの坂は、急でもなければ長くもない。でも、一つ終わったところでまた新しい坂が現れる。起伏はあたかも大波のように続いて、いつ平坦な道になるのかまったくわからない。

何度も坂を越えるうちにさすがに嫌になってきて、上り坂の途中のくぼみにしゃがむ。手持ちぶさたに、何をというわけでもなく、指で土に字を書くことにした。さという字を書いた。くという字も書けた。曲った字、まっすぐな字、心の趣くままに落書きする。

落書きの間にも、頬のあたりがしきりにかゆい。記憶が確かなら、さっき、毒虫に触れられたところのはずだ。袖で何度も何度も頬をこすっては、また字を書いた。

 

いろいろ書いているうちに、難しい字が我ながらなかなかに綺麗に書けた。姉さんに見せたいな。そう思った瞬間、急に姉さんが恋しくなる。立ち上がって帰り道のほうを見ると、躑躅は道をふさぐように両側から小枝を組み、隙間なく咲いていた。日差しはいっそう赤みを増して、開いた僕の手のひらを紅く照らしている。

坂を一直線にかけ上る。でも、景色はさっきとたいして変わらない、躑躅の下り坂。走って下って、走って上って。いつまでかかるんだろう、今度こそ見知った道になるかな、と思っても違って、道はまたうねった坂。地面の感触はやわらかくて、小石一つない。家の付近とは違う。まだ、家はだいぶ遠いみたいだ。我慢できないくらいに姉が恋しくて、たえられなかった。

再び坂を駆けのぼり、また駆けおりる時には、僕は思わず泣き出していた。泣きながらひたすら走っても、まだ家にはたどり着かない。坂も躑躅も、少しもさっきと変わらない。日もどんどん傾いてきた。心細さが増す。肩や背のあたりも寒くなってきた。夕日が坂に鮮やかな茜色をさし、躑躅の花を言いようがないほど赤く染めている。そのさまは、紅の雪が降り積もっているかのようだった。


僕はとうとう大声で泣きながら、声の限りに、姉さん、姉さん、と呼んだ。一回、二回、三回呼んで、姉さんから返事が来ないかとしゃくりあげながら耳をすます。と、遠くのほうから滝の音が聞こえた。どうどうと滝の音が響くなかに、甲高く冴えた声がかすかに、
「もういいよ、もういいよ」
と呼んでいる。これはもしかして、僕たちくらいの子がやる「隠れ遊び」の合図じゃないか。一度聞こえた後は聞こえなくなってしまったけど、だんだん気持ちが落ち着いてきた。声のしたほうへ向かいながら、また坂を一つおりて一つのぼり、小高い場所に立って見下ろす。神社の、小さなお堂の瓦屋根が、杉の樹立のなかから見えた。ようやく僕は、紅の雪の迷宮から逃れることができたのだ。

 

お堂に向かって歩くうちに、躑躅の花はまばらに咲くようになって、躑躅の葉も少なくなっていく。やがてお堂の裏にたどりついた頃には、赤い躑躅の花は一株も見当たらなくなった。

夕日が、境内の手洗水(みたらし)のあたりを染めている。境内には柵で囲われた井戸がひとつ、古い銀杏(いちょう)の樹があって、そのうしろには人の家の土塀もあった。ここは家の裏口の空き地のようで、家の向かいには小さな稲荷のお堂がある。石の鳥居もある。木の鳥居もある。この木の鳥居の左の柱には割れ目があって、太い鉄の輪をはめられている。

これには見覚えがある。ここからは確か家に割と近かったはずだ。そう思うと、さっきまでの恐ろしさは全く忘れてしまった。ただひたすらに夕日が照りそそいでいた赤いつつじの花が、僕の背丈よりも高く咲いて、前後左右を埋め尽くし、その中を緑と、紅と、紫と、青白の光を羽に帯びた毒虫がキラキラと飛んでいる情景だけが、絵のように僕の小さな胸に描かれていた。

 

第3章はこちら。